貴方はあるバンドのコンサートのチケットが欲しいとします。
しかし貴方はそのチケットに当選できなくて購入できませんでした。
悔しかった貴方は気分転換に、とある場所へ行こうと電車に乗ることにしました。
電車に乗った貴方は購入できなかった悔しさを忘れようと、
目的地までの電車の旅を楽しむことにしました。
ふと前方からコーヒーを片手持った人が、貴方の座席の横を通り過ぎようとしましたが、その人は下に置いてあったカバンにひっかけてしまったのか、体勢が崩れてしまい手に持っていたコーヒーは貴方に勢いよく服にかかってしまいました。
今日はなんて日だろう。
そう思うかもしれません。
しかしなぜか今日はそうは思えませんでした。
そんな日もある。
溢した人は別にわざとじゃない様子だし、
今日は運が悪い日だったのだろうと受け入れました。
クリーニング代を渡そうとしてきましたが、
なぜか受け取る気になれませんでした。
すると本当に申し訳なさそうに謝ってくる人は、
あるチケットを渡してきます。
それは貴方が欲しくてたまらないコンサートのチケットでした。
貴方がバンドのグッズを身に付けていたので、
お詫びにこれをと渡してくれました。
こうしてあなたは欲しかったコンサートのチケットを手に入れました。
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とても都合のいい話に聞こえるでしょう。
これは作られたシナリオなのだから
そうだと感じるのも無理はないと思います。
しかし、わたしたちの現実では、
まさにコレが常に潜んでいるのです。
なぜそうだと思えるのか。
それは一つ一つの動作に不可能なことは起きてないと言うこと
そしてその一つ一つの行動・出来事を組み合わせれば
この様なことは起こせるのです。
そんなの無理だろうと思うでしょう。
しかしその一つ一つの行動・出来事を組み合わせて
このルートで手に入れられると知っていたらどうでしょう?
貴方が不可能だと思っている部分は
ただの組み合わせの部分だけなんです。
それがわかるなら、不可能ではないと思いませんか?
そのルートを知っているのが
私たちの無意識の部分です。
それをハイヤーセルフと言ったりもしますが
ここでは敢えて無意識の部分と説明させてもらいます。
無意識の部分とは何か。
それは
「なんとなく」とか
「理由もなくやりたいこと」とか
「やったほうがいいのでは?」とか
「そんなような気がする」とか
とても曖昧でハッキリしないモノです。
なぜその声が手に入れられるルートを知っていて
そうだと言えるのかは
説明するととても長くなるの割愛します。
この話は別の記事で書かせてもらいます。
その「なんとなく」と言うものは
常人の人は常にあるわけではないです。
なぜなら私たちは常に「ハッキリした」
わかりやすいものに目を向けているからです。
その「なんとなく」と言う意見に耳を傾けないのです。
だって現実のやらなきゃいけないことが、沢山あるから。
しかしその「やらなきゃいけない事」とは
実はやらなきゃいけない事じゃなかったりするのです。
だって目的のものを手に入れる、達成するルートは
「なんとなく」が知っているのですから。
「やらなきゃいけない事」はその前に目的があるから
「やらなきゃいけない事」になっています。
「やらなきゃいけない事」じゃなくても目的が達成出来るのなら
それはもう「やらなきゃいけない事」にはならないのです。
つまり何が言いたいかというと
「なんとなく」に従っていれば
自分の望む人生を歩むことができるということです。
ただし、重要なのは望むものがあるのなら
それをやることを「決める」ことをしなければ動きません。
欲しいものがあるのなら、それを手に入れると決め、行動する事です。
そしてそれが手に入らなくてもOKという状態でいる事も重要です。
どちらにも期待しない事です。
欲のない人の方が欲しいものを当てるのはコレなのです。
ここでいう行動というのは「なんとなく思ったこと」を行動に移すことです。
目的と関連してなくてもいいのです。
先ほどのチケットの話のように展開するのだから。
そしてその願いはいつも当事者だけで願いを叶えてるわけではないということです。
コレがある関係で
「なんとなく」の行動をしても欲しいものが手に入らない事は
往々にしてあるのです。
だから根気よく何度もやる必要もあるという事を
頭に入れておく必要があります。
当事者じゃない人も関わっていたりするのは、
当事者じゃない人はその欲しいものに対してどうでもいいので
先ほど述べた両方OKの状態だからこそ、
「なんとなく」と言う行動がなんの抵抗もなくできる為、
当事者じゃない人の助けがあると現実化が早いのです。
もちろん当事者の「なんとなく」の行動ができなければ、全てが水の泡となるのです。
その手に入れられるルートがこの現実には沢山潜んでいるのです。
その確率の低いルートを辿れば「奇跡」と言われるものが起きるのです。
肝心の「無意識がそのルートを知っている」ところが
腑に落ちなければ、コレはただの戯言でしょう。
なんの根拠もないと思うのでしょう。
支離滅裂とも言われるでしょう。
ただその「無意識」という部分は
とても計り知れないのです。
だって私たちは無意識の全貌を何も知らないし、
物理的な証明もない。(※本当は科学で色々証明されてます)
「無意識」なんですから。
そんなことが起きるなんて知りようがないです。
あとはわかる人から伝えられることを
「信じる」か「信じない」かだけなんです。
私は意識を認識している時点で信じざる追えないと考えています。
何故なら
認識してること自体が
それが在ることを証明しているのです。
つまり「何となく」という無意識を認識している時点で
無意識は存在し、何かしらの働きがあるということです。
その何かしらが、私たちは「知らない」だけなんです。
そう無意識は計り知れないからです。






